Vol.014  ツーリストシップ版 田中千恵子用語集①

天然素材という言葉は、今のご時世特に稀有な存在なのだろうと思うことがある。 より簡潔に、わかりやすく、そして一気に良さが伝わる戦術として、例えば動画配信であればほんの数秒のインパクトを集約することで、やがて「バズる」ことがある。つまり、わかりやすく伝わるということは、手が加えられているということだ。 素材そのものを、時間をかけて味わう、また何も手を加えぬままの、原石のままに触れる事さえ、今は難しくなった。 確かに、相手に伝わりやすいということは尊い。説明書きがある、要約してくれている、手順を示してくれている。どれも分かりやすさを生み出す価値である。 だがどうだろう。出てきた言葉をあえてそのままに、あるがままに表現してみた場合、その言葉達にどんな翼が生えるだろうという想像を、してみたくなったのだ。 先日の夜中に書き起こした、田中代表から飛び出した言葉達の、あるがままの天然素材に、今日はご招待したいと思う。その言葉達にどんな翼が生えるのだろうと、頬を緩めながら。 【ぎっくり背中もどき】 しゃっくりが止まらなくなり、背中がつったような感覚を覚え、これはぎっくり腰《のような痛め方》に違いないと確信しつつも、《いやでも動くし、痛いけど、ぎっくりではないかもしれない》と思ったか、《そもそも背中にぎっくりってあるのか》という自身への疑念が、最後の「もどき」を生み出している。今回のセッションは、この言葉から始まっている。 【墨田区観光協会】 すみだ観光プロモーションカー「すみーくる」など、観光に対する真摯で誠実な姿勢を感じさせる一般社団法人。田中代表が先日この墨田区観光協会様とブースを出展し大好評。是非フランチャイズ化をしてはと提案され、おお、それはいいぞと算段に入ったとか。ツーリストシップが京都を飛び越え、関東にも触手を伸ばしている証左のエピソード。 【シビックプライド】 愛をプライドに変えていく。田中代表のこの名言と共に表出した言葉。シビックは市民、プライドは誇り。いわばその土地に住まう方々が、この街に抱く意識的なもの、またはプライドそのもののこと。郷土愛にも近い言葉だが、より「相手に示す」「鼓舞する」ような意味合いを含んでいる。つまりPR的要素が高い。「そうか、例えばボディビルダーが舞台上で、こうやってポーズしたりすることかな」と振ったら「ああ、まあそうですね」と軽く流された。 【フランチャイズ】 墨田区観光協会様から飛び出したフランチャイズ。もはやここで示すまでもないくらい、コンビニやスクール系の定番のビジネスモデル。この「ビジネスモデル」をツーリストシップが手掛けるかもしれないと、考えただけで私は少し胸が躍った。広がる速度が違う、波及効果のインパクトが違う、その点で効果的だという見方と、本来のマインドが薄れかねないという懸念も併せ持つ。今後の成り行きに注目だ。 【堂々と話せるようになった】 田中代表が最近得た自信にまつわるエピソード。いつも下手に出ていたが、ある時やっぱり偉そうにマウント取られそうだったので、さすがにそれはないだろうと「強め」に言ったら、相手は案外「そうですか、じゃあ」と引っ込めてくれた。なあんだ、言えばわかるんじゃないか、と思って、そこから「堂々と話せるようになった」という言葉が生まれた。私に言わせればあなたは昔から「堂々と話していた」と思いますが何か。 【流行語大賞】 ツーリストシップを流行語大賞に!その想いが少しずつ具体的な歩みに変わってきているという。しかし、単純に流行らせればいい、バズらせればいいという話ではなかった。綿密な計算、バックキャスティングからの計画が重要であり、その設計を今考えている、またはブレーンに考えてもらっているということだ。年末のあの舞台に、田中代表が立つ日が来るかもしれない! 【現場感は自信になる】 現場に立つことで分かるもの、五感に届く実感に勝るものはない。そこに漂う空気感、人と人とが直接対峙するときの感覚、匂い、音も、その全ては現場に立たなければ分からない。田中代表が続けている出店ブースもまた、その大事な現場の一つである。自信とは、現場に立脚したからこそ得られるものであり、そこに立った私が、ここにいる。もうそれだけで十分なのかもしれない。 【まだまだペエペエなので】 ひたすら頭を低くしたところで仕方がない…とはいえ、田中代表の「まだまだです」は口癖だ。大きな理念があるからこそ、神は細部に宿る。更に加えられているペエペエという発音は、ちょっと残念そうな感じで「ペーペー」ではなく、やや語尾を上げて「ぺえぺえ」となるのがポイント。ちなみに「ぺいぺい」とするとキャッシュレスになってしまうから要注意。 【その中に入っていくこと】 現場感は自信になる、という格言から、もう少し先に進んだ言葉。中に入ることの大切さを田中代表が語っていた。制度が障壁なら、その制度を作るメンバーに食い込めばいい。問題点があるのなら、その問題が生み出される場に入り込めばいい。観客席に居座ることを、きっと田中代表は好まない。実際に芝生に立ち、ボールの感触を得ない限り、その試合の主人公にはなれない。一見当たり前のロジックが、こうも迫力を生んでいるのは、きっと田中代表は、それを地で生きているからだろう。 どうですか、このフレーズたち。30分くらいのお話の中で、色んな背景と共に、出てきた言葉達をできるだけ原石のまま抽出してみました。 今のご時世に抗い、言葉達のままを、ごつごつした状態で表出させてみたときの、皆さんの心の中に生えた翼は、どんなものだったでしょうか。共感?違和感?意味不明?何でもいいです、それこそが、翼の本来の姿だと思います。 それぞれの翼が、それぞれの地で羽ばたいていくことも、ツーリストシップなのかもしれないなあと、思ったのでした。 

Vol.013  眠れぬ夜の流れは絶えずして

日本三大随筆の一つと言われる「方丈記」。著者の鴨長明が、まさか800年という年月が経ってもなお、こうして読まれ続けている現実を推し量ろうはずはなかった。 出世街道から堕ち、京都・日野の山中にある方丈の庵(いおり)で余生を過ごしたミニマリストの先駆者は、確かに無常の世の中と、見栄や物欲に支配される中で本質的な幸福を問うたその姿勢に普遍性を見たことは想像できる。しかしまさか、800年という年月に耐えうる偉作になろうとは、これは未来のいたずらか、偶然の産物か。未来を紡ぐヒトカケラを、幾重にも折り重ねて時代は生まれ、やがて朽ちるを、繰り返す。 「あれだけ読めば日本がわかる」 巨匠・解剖学者の養老孟司氏は、方丈記をこのように評していた。まさかと思い自身も拝読したが、そこまでの奥深さを感じ取れなかったものの、駄文のない澄んだ表現は、なるほど今も尚読まれる理由の断片に触れることができた。 400字詰め原稿にして25枚程度の分量が、こうも私たちの心に「残そうと迫りくるもの」があるのだとしたら、一体それは何なのだろうと、眠れぬ夜、深い闇に覆われた間断の窓を眺める。 田中代表は先日、あるお坊様と出会う機会があった。そこで建築中の土台を見せられ、かかった費用を聞いて腰が抜けそうになった。億単位の買い物、なぜそこまでしてお金をかけるのかと聞くまでもなく、そのお坊様は、500年後をイメージした建築だからこそ、億単位を要したのだと教えてくれた。 500年後を見据えた買い物。もはや他人事のように聞こえる500年後は、そのお坊様にとっては「成し遂げたい未来」として自身のミッションに手繰り寄せていた。500年を背負う人物の視野には、数代に渡るこの先の、いるはずもない自分自身が映し出されているのかもしれない。 狙えるはずもなく800年の時を跨(また)いだ鴨長明と、意図的に500年を見据えるお坊様とに、もし共通するものがあるとすれば何だろうと、深まる夜に想像を巡らせてみる。どういう人が、どういうものが、時代を超え、長年に渡る価値を創り出していくのか。 「ネプリーグって知ってます?ブースでやってみたいんですよね」 ふと、田中代表のその言葉を思い出す。そして瞬時に、合点がいった。 バックキャスティングで物事を生み出し、動き出す志の高さ。そして無邪気に、思いのままに、「こうだ」と決めて真っすぐに取り組める純粋さ。 そうか、この純度の高さが、後世に残る理由なのかもしれない。やってみたいことがストレートに現れる田中代表にも、その純度の高さが感じられる。そういうことかと、腑に落ちた。 遺すこと《そのもの》が目的ではなく、ただ《こうでありたい》とする《意図を持ちつつ自由度のある》状態、ここに私たちは、本当の普遍的な、価値ある豊かさを見ていく時代に来たのかもしれない。そんなことに気づかされた。 …そしてもう一つ、冴え始めた目を擦りながら、気付かされたことがある。 こういうことを、眠れない夜に考えるもんじゃないと。 「あれだけ読めば観光がわかる」 間もなく世に出るツーリストシップ本を、もし養老孟司氏が読んでくれたら、こう言ってくれるんじゃないかと想像して、また眠れなくなった。

Vol.012  荒れた言葉達が、未来の沃野になる

言葉というもの、けっこうぐらぐらとしていて、単独でいることはできないのである。 不安定なのだ。何かと化合したがっているようなのだ。だから連想ゲームが成立しうるのだ。 『千夜千冊』で有名な著述家、松岡正剛氏の抜粋である。 “連想ゲーム”というテーマの中で松岡氏は、言葉というものは、周辺領域にある様々な別の言葉をつなぎ合わせ、人は様々な連想や関連付けを行う動物であると表現する。 そこには、目に見えない「ことば」という媒体を通じて、感情や想い、そして苦悩やもがきといったものを露わにする、人類の性のようなものを感じた。言葉が単独でいられず、化合を求めたがるのが本来だとしたら、きっと私たちが口にする「ことば」は、美意識や慣例と言ったものをかなぐり捨て、ただただ一途に、その生きざまを野ざらしにしながら、方々(ほうぼう)に放たれ続け、影響を与え合うのだろう。本気であればあるほどに、言葉は荒れる。荒れるからこそ、周辺の言葉達と融合する。その融合が未来を創る。その力強さこそ、「ことば」の威力なのだろう。 この日の田中代表は荒れていた。やけくそとか、怒りとか、そういうことではない。無限の可能性を前に、恐れや不満によるものではない、高ぶる想いを野ざらしにした、一種の武者震いに近い。 意見の相違が起こる。その違えた事実が様々な摩擦や、乾いた空気を生み出す。しかしながら、この違えたもの同士が、やがてまだ見ぬ未来を創り出していく。そうやって人類の叡智は、時代を追うごとに、イノベーションの程度を増していった。 「けっこうぐらぐらとして」いるその言葉達が、相手に届き、想いを巡らせ、そして周りの人たちの心を揺さぶる。ぐらぐらと揺さぶってくれる仲間がいる。過去誰にも相談できない、一人での運営を強いられた頃を思えば、今のこの喧々諤々と議論ができることの、何と恵まれたことか。田中代表は今、しみじみとそれを感じている。 逆境が順境な未来を創る。順境な道のりに成長はない。そのことを田中代表は胸に秘め、今日も訪れる難問に戯れている。化合した言葉達が、やがて未来への連想ゲームをし始める。田中代表の荒れた言葉達は、果たすべき未来像の連想ゲームを止めることはない。本気であればあるほどに、その躍動感は社会を動かす。 NHK『クローズアップ現代』にツーリストシップのブースが登場した。来週には日経新聞にも載る。そんな華やかな実績も、彼女に言わせれば一里塚だ。 この日の田中代表は荒れていた。この荒れた言葉達が、未来の沃野を意味していた。私に言わせれば、何ともたくましく、そして何とも、微笑ましい。(1075文字)

Vol.011  人間の創造性は、この葛藤にこそ、生まれ得る

ChatGPTが世間を賑わせている。AIが遂に、人間に成り代わって何でもやってしまう時代に入った。 レポートの作成だって、営業戦略の立案だって、恋愛相談だって、何でもこなせてしまう。 シンギュラリティ-はもう少し先だと思っていたら、AIが全てを支配する世界はそう遠くない未来図になってきた。 これはいわば、人間の長年の経験値を簡単にAIが乗り越えていく時代の到来を指す。年功序列によって保たれていた秩序は、年を重ねることで得られてきた経験によるものだった。その構図が壊れようとしている。 AIによる人間のロジックを凌駕した事件は、1997年のチェスの世界で、そして2017年の将棋の世界でそれぞれ起こり、AIの絶対的強さが証明された。今や将棋やチェスの類いは、AIが示す評価値によって有利不利かが一瞬で分かるようになった。長年の経験を積んできた猛者たちの解説を待たずして、AIが数秒で弾き出す最善手は、私たちに何をもたらし、何を奪いそして、どんな未来を描いていくのだろう。 ツーリストシップの浸透を視野に入れた一つの施策として、推進法を設立するという驚きの“一手”が示された。田中代表の語気が荒くなる。 「ツーリストシップを議員立法にすることを考え付きました。そのためには、いま進めているブース出展を通じて、データを取り集め、希少価値の高い事実でもって物事を動かしていく。データという事実を前にすれば、物事は案外真っすぐに進むのではないか。推進法の設立は確かに大変だけど、そう無茶な話でもないように思えてきたんです。」 最初は冗談だと思った。推進法にしてどんなメリットがあるのか。 「助成金にもつながっていきますし、旅行者や観光業界への一助にもなり得る。可能性が広がるのではと、直感で思いました。」 田中代表は冗談ではなかった。そして気の遠くなるような立法への道のりを、決して遠くない未来に据えていた。こういうサプライズがツーリストシップのプロセスだ。結論ファーストではない、この道程に力がみなぎる。ツーリストシップが日に日に、厚みを増していく。 『ツーリストシップ推進法を誕生させるにはどうすればいいですか』 もしChatGPTに聞いたら何と答えるのだろうか。一瞬やってみようと思ったが、やめた。プロセスが味わえなくなる。道程に咲く、試練という名の一輪の花が、ChatGPTによって儚く根絶やしにされることは忍びない。 「AIが避ける無駄の中から、人間の創造性が育まれる」 永世七冠を達成した未曽有の大棋士・羽生善治九段は、AIの台頭に対して「テクノロジーの進歩は止められない」としつつも、人間の創造性についてはそのように評価した。 ツーリストシップはまさに、人間が生み出した創造性の一つである。ChatGPTを有効活用することは間違いなく人類の叡智であり大きな一歩だ。しかし葛藤もある。その両方を併せ吞む受容的態度もまた、人間ならではの懐の深さとも言えるのだろう。 この葛藤は、この時代に生まれた私たちの特権である。ツーリストシップもまた、その特権の中で生き、もがき、乗り越えていく。 人間の創造性とは、そんな葛藤の渦にこそ、生まれ得るものなのだろう。田中代表は冷静だった。静かな闘志が、みなぎっていた。(1886文字)

Vol.010  理想の対義語は現実にあらず。成功の対義語は失敗にあらず

国語の授業で「対義語」という言葉を聞いたことがある。 意味上の対(つい)をなす語、反対の意味を指す言葉。 例えば「大きい」の対義語は「小さい」、「狭い」の対義語は「広い」、「良い」「悪い」、「深い」「浅い」あげればきりがない。 では、「理想」という言葉の対義語は、何でしょうか。 そうですね、「現実」となります。 ツーリストシップに限らず、あらゆる団体が志を立て、その手に握る夢というものには、確かな「理想」が存在し、その理想こそが原動力となって様々な行動を発起させる。 云わば「理念」とも言える、何のために、誰のために、なぜやるのかという動機の根っ子である。 崇高な理想は得てして、現実の問題を蔑ろにしがちである。立派なことは口にしても、実際の行動に移せない、寂しい志は世の中、枚挙に暇(いとま)がない。 ともすれば、旅行者、観光従事者、住民の三方善しを目指すそのツーリストシップの志もまた、数多くある《行動なき理想の1ページ》に埋没しかねない。描いて終わるような、儚い理想に留まっては、この誇り高き理想は水泡に帰す。 しかし田中代表は、行動を求め、「現実」を見ていた。この先の人不足、そして効率と効果との両輪を視野に入れた突拍子もないような、けれど実に現実を見据えた構想を設計していた。 そう、ブースの無人化である。 人と人とが膝と膝を突き合わせて初めて成し遂げられることこそが「ツーリストシップ」であると思いきや、田中代表の頭の中では、エクセルで弾き出された精巧な損益分岐、収支計算の表でびっしり埋め尽くされていた。コストを抑え、幅広い展開を視野に入れて考えれば、何でも人がすることの問題点は明らかだ。人がやらないといけないという思考の枠を外した。理想に走ると見せかけて、この周到な現実主義には頭が下がる。 この日、田中代表の話を聞いていて思ったことがある。理想を成し遂げる上で、現実が障壁になるという発想は田中代表にはないと思った。その迫りくる現実こそが、理想を実(じつ)に結ぶ突破口であるという思考だった。つまり、理想と現実は、田中代表にとっては対義語ではない。同義語なのである。 ブースの無人化、その飽くなき挑戦はまさに、真のツーリストシップの成功のための一里塚である。やってみなければ分からない、その心意気は既に、ツーリストシップを地で生きる者の佇まいだ。頭に描くイメージ図と計算機の同居、なるほど、さもありなんである。 ちなみに「成功」の対義語は何でしょうか。そう、失敗と答えるのは辞書としては正しいが、ツーリストシップとしては不正解。 正解は、…そうですね。成功の反対は、挑戦しないことですね。 アメリカの教育者、ノア・ウェブスターは言いました。 「成功とは、探し求めた目標の、満足のいく達成である」 田中代表が観る世界は、理想じゃない。挑戦という道の向こう側に立つ、「現実」そのものである。 (1187文字)

Vol.009 ツーリストシップの書籍が生まれる

ツーリストシップの書籍が生まれる。さらりと書くと「ふーん」で終わりそうだが、ツーリストシップが本になるなんて、よくよく考えれば凄いことだ。 田中代表はここ数日、しれっと、ほぼこの執筆に時間を割き続けてきた。雨の日も、風の日も、イベントブースに立ってはふと、「あ、思いついた」と豆電球が頭上に浮かんでは、切れ端にメモをしたりする日も、あったことだろう(知らんけど)。 そんな怒涛の執筆活動を終えた、出来立てほやほやの当日に、この話を伺った。 山は高ければ高いほど登り甲斐がある。登ったものにしか見えない景色。無心でツーリストシップを描き、語り、したためたプロセスが、どんな観光地のそれをも凌駕する絶景を用意したに違いない。 「やっと終わりましたよ」 充実感、達成感に満たされた言葉だった。 田中代表の、まさに駆け抜けた直後のインタビューとして、発せられた言葉たちをそのまま列挙してみた。 ・書くことで考えがまとまった・時折書き直すことによって、描いていた考えがよりブラッシュアップされていった・私は何を目指しているのか、どういう世界を創りたいのかが、より鮮明になった・もう、これ以上ないくらいに書き切った・いま、解放感が心地いい・一つひとつ調べながら書いていったので、新しい知識も習得できた・構想していたものが言語化されていった・書かねばならないという緊迫感が、本来好きだった《書く》という行為を重たくもしていた 登ったものでしか語れない生(なま)の言葉たち。登るということは、まさにその人にとっての体験こそが価値ある経験となって、この先の血肉となることを意味していた。田中代表がまた一回り大きくなった気がした。 ツーリストシップは、寄り添うことと、交わり合うことを推奨している。せっかくの旅行を、もっと楽しいものに、もっとワクワクすることができるのに、ただ旅行するだけではモッタイナイ。そんな想いが田中代表にはある。 ここで面白い表現があった。 寄り添いと交わり合いには、順番がある。寄り添いが先で、交わり合いは、後。寄り添いが《マイナスをゼロに戻し》、交わり合いが《ゼロをプラスに》していくという。 うーん。聞いていて、分かったところと難解なところが同居している。詳しくは書籍で全て明らかになるのかもしれない。この深みもきっと、魅力の一つだろう。 執筆活動そのものによって、ツーリストシップが今まで以上に幅を持ち、深さを得たように見える。登った頂上の、そこでしか見せない景色は確かに素晴らしい。だが、例えば頂上から見た景色も、登る苦難をショートカットして、楽楽と見下げた場合、その景色は同じでも、心に映す重みや輝きはまるで違うだろう。 あえて言えば、書籍が世に出るということは、完成したことを喜ぶのではなく、雨の日も風の日も、常に考え模索し続けた、登山の苦難そのものにこそ価値があったとも言えるのではないか。書き終えた田中代表からの一言一言、その態度一つひとつにこそ、ツーリストシップが《書き連ねられている》のだろう。 なんだかんだ言って、手に取ってツーリストシップを手軽に《読むことができる》ことは、私たち読者にとってはこの上ない喜びだ。何と言っても、田中代表が登ったその苦しかったプロセスを体験できるわけだ。もちろん、書いたものにしか分からない景色を読者は手に入れることはできないが、共に感じ合うことはできる。共に共鳴し、語り合うことだってできる。まさに《寄り添い、交わり合う》ことが、書籍ができあがることで、より鮮明になるのだ。 寄り添い、交わり合うことの、ツーリストシップの醍醐味をこの手に取ることのできる日が、今からもう、待ち遠しい。

Vol.008 『8.6ツーリストシップサミット』が、“本質記念日”になる理由

私たちが一日のうちに、街中で目にする広告の数は4,000~10,000と言われている。 目まぐるしい広告の数は、言い換えれば狂おしいほどの「これ、買ってください」が横行する資本主義社会。 通販で購入した途端に、リコメンドが追い打ちをかける。これもある、それもある、あれもいい、これも、いい。息つく暇もない波状攻撃を前にして、私たち本来の意思はもしかすると蔑ろにされ、《買わされている》かもしれない虚しい実態を浮き彫りにする。 ネット社会、SNS効果によって便利になった社会の副作用であるとも表現できるが、実はここ最近になって言われた話ではない。江戸幕府の末期、大政奉還の5年前にドイツの労働運動家フェルディナント・ラッサールが、既にそれを指摘していた。 彼の主張はこうだ。本来は欲しいと思う人のニーズがあって初めて、供給や生産が生まれるもので、買う側が欲しいと求めるから作り手はそれを作り販売するという順番が正常である。だがそれはもはや逆転していて、生産と供給が欲求に先行し、作る側が買う側に対して、購買意欲を強制しているという主張だ。 つまりは、1862年当時から彼は既に、世界市場のためにモノが生産されていることを指摘していたのだ。欲しいから作るのではなく、欲しくなるようなものを作って、無意識にそれを選択させようという巧妙なマーケティングが昔から始まっていたわけである。 驚くべきは、そんな昔からもう私たちはずっと、「欲しいから買う」のではなく、「呼ばれたから買っている」操られたかのような生活を営んでいたということだ。それくらい、欲求に対して、生きることに対して、本質を射抜くことは難しい。数多ある誘惑との戦いでもあり、作る側と買う側との綱引きは今日も例外なく社会を動かしている。 目指すものは何なのか。今私は、何のためにこれをやっているのか。この本質的な解答になかなかたどり着けない私たちの有様も、ある意味頷くしかない。外からの刺激によって手足を動かしてきた私たちが、いざ「私たちから」その手足を動かす方法論を、もはや失って久しいわけである。 悲観論ではない。これは私たちにとって希望なのだ。世の中に出回る「買ってください」に、あえていえば《期待する必要はない》のだ。何が出回ろうとも、どんなノウハウが世に出ようとも、そのキャッチーな甘い蜜には、甘いなりの理由がある。そのことを胸に忍ばせ、本質を生きる可能性は、「買わされている」私たちだからこそ成し得る事だと思うからである。 8月6日の第二回ツーリストシップサミットは、本質と向き合う機会にする。私たちが心の底から、求めたいもの、得たいもの、到達したい高みを目指す。集まってくれる方々の笑顔を想像し、ツーリストシップを生きるという確かな選択肢は、私たちを揺さぶり続けるあの秀逸なリコメンドには決して検知されまい。だからこそ、開催する意義がある。 2023年8月6日は、私たちがその本質に向かい合い、求め合い、心が喜ぶ方を選択する記念日になる。その幕が切って落とされたのだ。 「お越しになる方々の笑顔をイメージすることから始めたい」 今夜もぎりぎり終電に飛び乗った田中代表の、静かな、けれど熱い決意表明だ。成功の方程式は案外単純だ。人が一日のうちに目にするであろう4,000~10,000の広告が、一切目に入らなくなった時が、サミットの成功を意味する。その日までのカウントダウンが、今夜ここで、打ち鳴らされたということだ。 京都大学の時計台。ツーリストシップという本質が、学問の社(やしろ)を、射抜く。 (1379文字)

Vol.007 ぶれない錨(いかり)をもつ、田中代表の生い立ち

前回取り上げたツーリストシップの行動指針「HARF」の文脈の中で、もう一つ興味深いやり取りがあった。一体ツーリストシップとはどういうものか、改めて生まれたその大きな問いに答えているうちに、話はやがて、田中代表の生い立ちに辿り着いた。 お父さんの仕事の都合で、田中代表は転勤族だった。行く土地がコロコロと変わる。その行動範囲によって柔軟性は身に着いた気がすると自覚しているが、同時に「郷土愛」のような、地元を愛するというような気持ちがどうも持てないという悩みだった。しかし、だからこそ、色んな土地に出向く旅への興味関心もまた、沸き起こったのだろう。 行く先々で出逢う、住民の方々の想いや苦悩も、却って身に迫るものがあった。そんなことを話していたら、ふと田中代表の声色が変わる。 そうか。私は日本に来る外国人に、この場所を荒らしてほしくないと思っている。荒らしてほしくない代わりに、私も外国に旅行に行ったら、絶対に荒らさない。これが、ツーリストシップが生まれた原点かもしれない、と。 だから「あなたにとってのツーリストシップは何ですか」という問いが生まれる。その問いは、田中代表の、転勤族だった背景と、行く旅行先で見聞きする課題感とが掛け合わさっている。やがてそれが、今日のバイタリティとして育まれる。 人間が生み出す夢、目標、渇望といったものは、恐らく個々の生い立ちや背景が色濃く反映される。それが原動力となって、自身を奮い立たせる。 田中代表もまた、その幼少期の体験を活かし、世界に向けての大海原の旅を志すに至った。団体の規模や活動の大きさが価値ではない。その描く志の、想い抱く生き様こそ価値であると、彼女の言動を見るにつけ、思うのである。 生き様を育む生い立ちというものは、その先の捉え方によって、プラスにもマイナスにもなる。そのことを、田中代表が、自らの心と体で表現している。 日頃見せるその笑顔は、その志が生み出している。彼女の心には、不動の錨(いかり)が、海の底に深く突き刺さっている。どうりで、ぶれないわけである。  (850文字)

Vol.006 ツーリストシップ行動指針「HARF」について

人間という生き物は奇妙なもので、「やってはいけない」と言われると、やりたくなる特性を持っている。 それは、年末恒例となった「笑ってはいけない」番組で、出演者が事あるごとに「笑い出す」あの有様を少しでも見たことのある方なら、想像は容易いだろう。ただあの番組は、無理やり笑わそうとしているので少し意味は異なるが、「してはいけないこと」に対して人間は、そのように「やってしまう」生き物なのかもしれない。 ツーリストシップが掲げる『具体的な行動指針』として、「HARF」というものがある。これは、鍵カッコも含んでの、それぞれの頭文字。Lという文字を回転させ、鍵カッコとして表現した、何ともシュールな行動規範だ。 旅行前に調べること、旅行中は元気な挨拶をすること、聞くこと、読むこと、守ること、そして旅の後、そこで体験したことを「活かす」こと。この6つになる。 様々ある標語は、良くも悪くも抽象度が高い。そこを田中代表は、わかりやすい形で、あえて「こうだ」と具体化した。賛否あるだろうが、この辺りはツーリストシップの普及を考えた、田中代表の愛情ともとれる気がする。 特にこの6つに優先順位があるわけではない。しかし田中代表が特に声を大きくしたのが、「元気な挨拶」だった。 スポーツでも社員教育でも、挨拶が大事だと、聞かない時がない。それくらいもはや、どこでも言われている標語に、あえてツーリストシップは「その意味」を説明する。 挨拶をする意味、それは、挨拶によって旅行中での恐怖心を取り払うことができるのだと。挨拶がないと、その人が何を考えているのか、どういう人なのかさえ入ってこない。恐怖心が先行すると、自己防御のために関係性が悪くなる。この悪循環は、「元気な挨拶」から取り除くことができる。だから、挨拶は大事なんだよという説明だった。 しなければならないことには、理由がある。その理由が、旅をする私にとって価値があり、意味がある。だから私たちは、そのことを行動に移す。「やってはいけない」ことを「やってしまう」くらいの、人間の厄介な特性である。理由なしで「やりなさい」を、素直に従うほど、人間は素直じゃない。だから「笑ってしまう」のかもしれない。 ゴミを捨てるなと言われても、「捨ててしまう」のが人間である。それくらい、他人から言われて実行することを嫌う。しかしそこに、私にとっての意味があれば、私事(わたくしごと)としての理由があれば、話は別だろう。そんな人間のメカニズムを田中代表は計算して「元気な挨拶」を掲げたのだろうか。わかりやすさは、わかりやすい意味とセットであることで行動が生まれる。その行動に影響力が生まれる。やがて、ツーリストシップが広がり出す。そのことに気づいた瞬間だった。 「HARF」という標語は、優しい意味だからこそ、深い意図を持っている。この言葉が修学旅行生や様々な方々に広がり、意味と共に深化拡大していくことを、願わずにはいられない。 しかしこの「HARF」というネーミング、何とも美味しそうというか、爽快感というか、清潔感漂う透き通った香りがこちらまで届いてきそうな、そんなオーラを感じる。 って、それはハーブやないかい! …ダダーん。たなか、アウト。 ライター 弓指利武 サウンド 井本ゆうこ

Vol.005 マラマ・ハワイで得たツーリストシップの重み

ある日、タクシーに乗ったとき、後部座席にこんなステッカーが貼られていたことに気づいた。 「今日も笑顔で対応します」 何と素晴らしいメッセージ、そして決意の高さだと思った。恐らくタクシー会社が全車両に揃えて貼っているものとはわかっているが、こうもしっかり宣言されると並の笑顔では許されないなあと思って、頼もしくも感じ、悠々と乗っていた。 その直後である。横から飛び出してきたバイクを見て急ブレーキ、その瞬間、「チッ」という舌打ちの音が運転手の口から発せられた。何ともバツの悪い空気が室内を漂った。誇らしげだったあの大きなステッカーが、余計にむなしく、そして小さく見えた。 人は、うたい文句の凄さと現実との乖離を感じたとき、がっかりする。 そのギャップがない状態、いわば「言行一致」であればあるほど、安心感を覚える。何事もマッチすること、心のフィット感が大事である。 2月4日、第二回のツーリストシップ新年会を終えてすぐ、田中代表は実妹と二人でハワイ旅行に出かけた。単なる旅行ではない、「マラマ・ハワイ」を体感するためだ。 「マラマ」とは日本語で「思いやりの心」を意味する、ハワイ観光局が掲げているスローガンだ。まさにツーリストシップのマインドを鮮明に宣言しているその地を実際に訪れ、肌で感じたい。その想いが田中代表を突き動かした。事実、行ってみて気づいたことは多かった。 シュノーケルではウミガメにも遭遇し、一旅行者としてハワイを満喫した。出会う食事、景色、そしてウミガメ。世界有数の観光地であることも、また日本人に最も愛される海外の観光地の一つであることも、納得がいく。どれも魅力で満ちていた。しかし意外にも、ハワイで得た大きな価値は、準備された観光スポットに限らなかった。 やはり、「ひと」だったのである。 2人でビーチバレーをしていた。姉妹水入らずの時間は心地いいものだった。しかし、もっと楽しみたい、そして、出会いたい。心が動き、声をかけた。一緒にビーチバレーしませんか。快く加わってくれた。よし、一緒にやろうじゃないかと。 ハワイに用意された観光名所はパンフレットを見れば明らかだ。準備された感動は、それはそれで旅行者の胸を躍らせる。しかし、実際にその場に立ち、そこで起こるイベントは、ほぼ予期できたものではない。偶然出会った観光客と、ビーチバレーができるなんて、もちろんパンフレットには書かれていない。 結果その戦いは白熱、3セット全て田中姉妹の勝利。まさに手加減無し、真正面からアタックを続け、相手を揺さぶった。 そのやり取りを聞いて、私が思ったことがある。マラマに込められた「思いやりの心」とは、そこに用意されたものというよりも、その場で出会い、触れ合った時に起こるものだということだ。 あの日私がタクシーの後部座席で見たものは、確かに宣言され、約束された誇り高きメッセージだった。しかしその約束は、そのたった一瞬の舌打ちでもろくも崩れ去った。これくらい、言葉というものは威力があり、またもろくはかないものなのだ。 きっと田中代表は、だからこそ、マラマという言葉の重みを感じたことだろう。そしてまた、ツーリストシップがもつ可能性とリスクもまた、彼女の両肩に圧し掛かったことだろう。ハワイで得たのは、その重みと可能性だったのではと、聞きながら感じた。 だからこそ、ツーリストシップが今推し進めているブースの出店が意味を持つ。現地で出会う一人ひとりと語り、膝を突き合わすことの価値は、ハワイで得たビーチバレーがそれを物語っていたからだ。 「思いやりの心」を表現できる場は、あのタクシーの後部座席にはなかった。あったのは、ハワイに立った実際の体験であり、ビーチボールを本気で打ち付けたその、たくましい右腕と、ジンとする掌だったに違いない。 体験というものの大切さ、言葉の重みというものの大切さを、ハワイで得た3泊5日だった。