March 2024

vol.33 一周回って映る景色

「一周回って新しいぞ、それ」 もう20年くらい前。何も考えずに服の上下をストライプで揃えてしまった。まるで吊るされた素麵のような出で立ちを前に、あざ笑う友人たち。一人暮らしの時は、自分しか服装のチェックができないから、鏡の前に立つ時間を失うとロクなことがない。しかしその直後に、「一周回って」という言葉が出た。妙に記憶に残っている。 一周回るという表記は、今思えば大きく二つの用途がある。行為と比喩だ。行為としては「グランドのトラックを一周回った」「一周回って見せてごらんよ」「あのトロサーモン、一周回ってきたぞ」といった風な、何かが文字通り一回りしてきた様子を指す。 もう一つが面白い。「一周回って面白い」「一周回って追いついた」「変態って一周回って天才だよな」といったような、一周回ることで原点回帰だったり、昔のものや劣っていたものが「一周回る」ことで何かしらの力を得る。説得力なのか、レベルアップなのか。螺旋階段のような上昇機運ならまだ合点もいくが、一周回ることがなぜスケールを大きくしたり、今までにない価値を引っ提げてくるのか。日本語の比喩はこれだからオモシロイ。 田中代表も、御託に漏れず「一周回った」。ツーリストシップが一周回って、「マナー啓発」を促す表現をしている。本来ツーリストシップは、マナー啓発を指すことを半ば嫌っていた。旅人がマナー啓発って、そもそも楽しいのかそれ。旅は確かにマナーも大事だが、本来人は「楽しいから」続けられる弱い生き物だ。そこに啓発とか言って、浸透するわけがない。そんな想いがどこかにあった。 しかし、ツーリストシップの活動を積み上げ、折り重ねていくうちに、時代も環境も、そして目指すビジョンも変化を遂げている。潮流は決して、新しいものを次々には求めない。足元に既にあって、その価値をひたすらため込んでいたモノたちが、一周回ってワンと吠えるのだろうか。 「マナー啓発のバージョンアップとして伝えていいんじゃないかと思えてきたんです。それはあくまでも、伝えるためであり届けるため。そして実際に、そのことが《現れる》ために。」 田中代表をリアリストとは言わない。しかし、リアルな浸透策は得てして俗世間の生命線だ。行政と共に、旅行者と共に、住民と、観光地で商いをする方々と共に、伝わり届く本質を探り当てようとしているのだ。 ツーリストシップの一周は、決して容易いものではなかった。幾多の試行錯誤と喧々諤々とした議論を要した。だから、「一周回ってマナー啓発」には厚みがある。その言葉の意味するところ、来るところがまるで違うのである。 20年前に私が着こなした「ストライプ&ストライプ」は、かつての「まえだまえだ」のような可愛げがあったわけでもないし、奇をてらったニューセンスをカマしたわけでもない。完全なチョイスミスだ。しかしその出来事は、今もこうして記憶に残る。一周回ることで、その物語が違う表情を持って来てくれる。たくさんの風を感じて、その一周が、深い洞察と根を張る意味をもたらしてくれた。ただ言えることは、あの日からストライプの服を選ばなくなった。おかげであの日は夜中まで縦の罫線を身にまとい、心穏やかに過ごすことができなかった。嗚呼、ストライプ。なかなかの苦痛であった。 一周回ったツーリストシップは、その原点と、一周のうちに出逢った様々な軌跡を小脇に抱え、まだ見ぬ航海へと胸を膨らませる。そういう夢のある《一周回る》を、ツーリストシップは体現し始めた。マナー啓発のツーリストシップ、実に爽快で心地いい、reborn(リボーン)である。

vol.32 狙わない強さに、震えた夜

旧友と3人で呑んだ。半年ぶりである。 …と、フレンドリーに「旧友」なんて書かせて頂いているが、二人とも大先輩だ。 仕事で絡んだことはほとんどなく、ただ純に「飲み仲間」として付き合っていただけるのは、普段あまり「ただ飲むだけ」の会にはほとんど行かない私にとって、却って珍しく、面白い。 話す内容も、実に他愛もないことばかり。強引なダジャレや、ニッチでレトロな昭和ネタが指し込まれては、何それと声が弾む。 しかし今日の話題は、ダジャレもレトロもそこそこに、一人の先輩の「激やせぶり」でもちきりだった。この3か月ほどで15キロの減量。さすがに触れないわけにはいかない。「お久しぶりです」の言葉を押しやり、まず出てきたのは「どうしたんすか、それ」だった。 「まあ、私は毎日見てるんで、話題にならなくなったけどね」 激やせの先輩を前に、もう一人の「ダジャレ王」が悠々と呟き、既に半分飲み干したグラスを傾ける。彼に言わせれば、もう激やせは「当たり前の光景」になったそうだ。 毎日見ているものと、半年ぶりに見たものとの差異。外からの刺激も、習慣的な視覚を前にすると、気づきのアンテナを閉じてしまう。しかし言い換えれば、日々の変化は「気づきにくい」だけで着実に変化を生み出している。1か月もあれば人間の体の細胞はまるっと入れ替わっているらしい。変化は何も「分かりやすいもの」だけを意味しない。「変わらないほど」の変化こそ、習慣に溶け込んだ成長の醍醐味なのだろうと、思った。 さて、ツーリストシップアワードが大盛況だ。それぞれの旅の想い出を、写真を添えて応募する。そこで出会ったドラマ、偶然の意味を探り、ツーリストシップが花開くコンテスト。150あまりの「大切な旅の物語」が集まった。これを成し遂げたのは田中代表、ではない。インターンとして参加してくれた学生たちの力だ。 一人ひとりの誠実な態度の賜物であることは言うに及ばず、特に陣頭指揮を執ったHさんの活動に触れないわけにはいかない。田中代表が今回、特にこのHさんの成長を肌で感じ取っていた。 「どうやって人に動いてもらえるか」 ディレクションに頭を痛めた田中代表だからこそわかる、物事を進める難しさを、Hさんは空気の醸成力で心を揺さぶり、人を動かした。否、「動かした」と書くと操作的で合致しない。「結果として」人が「動いた」のである。 MITのダニエル・キム教授が提唱した「組織の成功循環モデル」によれば、成果を生み出そうと「結果の質」から事を動かすと失敗し、成果の前にメンバー間の信頼関係を指す「関係の質」から関わることで、結果的に成果につながるという研究結果を出して話題になった。Hさんのそれはまさに、「結果として」成果につないだ、関係の質向上が魅せた日常的な関わりによるものであったのだ。 しかし当の本人は飄々としている。凄いことをやってのけたと息巻いてもいない。ただ純粋に、集まったことを喜び、「これがツーリストシップのいいきっかけになれば」とただ、ワクワクしている。成果を追わず、共に分かち合う関係の質向上の要因は、そんなHさんの人間性にまで話が及んだ。田中代表だって20代の若者である。なのに、その若者をして「この若者は凄い」と言わしめる柔らかさである。既にもう「次の萌芽」が雪の中からひょっこりと顔を出している。そんなことがツーリストシップでは日常化している。末恐ろしいまでの習慣形成ではないか。 旧友の激やせも、習慣となれば目に入らなくなる。人の成長も、日々見ていればその変化に気づかない。見えず気づかず、それが悪いわけではない。それくらい、人の変化や成長は、日々の微妙な消息に宿るということだ。そして、世の中を席巻する「これであなたも見違えるくらいに良くなる!」という太鼓を叩きまくるかのような無理な宣伝広告に惑わされてはならないという、これ以上ない教訓なのである。 「次元ヘアカラー」 帰路の最後に大先輩が言い放ったこの言葉。いわゆる昭和時代にテレビCMを凌駕した「あの」ヘアカラーの名前と、着てきたコートのたたずまいが「まるで次元みたい」と表現した私の言葉とを共鳴させて生まれた。この編集力といい、間(ま)といい、タイミングといい、この何気なくも柔らかい笑いを、その大先輩もまた飄々とした様子でいとも簡単に表してしまう。そんなに面白い?とでも言わんばかりに。 人は動かすものではなく、その人のたたずまいや揺らしによって「動かされるもの」なのだろう。Hさんと、大先輩の「次元ヘアカラー」が、どうしてもダブって見えた。この、説明ができない凄さを身にまとう人たちは無敵である。緩やかにして、ぶれない。そんな人たちが、田中代表にとっても私にとっても、憧れなのである。 狙わないという強さが、これ以上ない精巧なロックオンを実現し、真ん中を射止めてしまう。よくよく考えれば末恐ろしい能力だ。そんな能力が、これからツーリストシップでも展開される。楽しみすぎて、足が震えた。

Vol.31 ディレクションにもがく春。

それは明らかに「起きたばかり」の声だった。 最近の早朝ヒアリングにも幾分慣れた頃、疲れは不意に体を襲い、寝覚めを悪くする。慣れというものがなければ人は生涯に渡って緊張し続けないといけない。だから「お前最近、緊張感がないぞ」というのは別段悪いわけではない。適応力の高さであり、昨今使われ始めたカタカナの一つ、「レジリエンス」の発揮そのものである。 慣れによって寝覚めを鈍化させたその体が、少しずつ熱っ気を帯び、テンションが二次関数のように空に向かう。その原動力となったのは、「ズレ」という課題が話題に上ったあたりだった。 田中代表は今、ディレクションという仕事の難しさを噛み締めている。ディレクション、言うなれば求めるゴールに向けての管理力と、資源の適切な再分配力が求められる仕事だ。世の中にあるものの大半は、誰かの手によってディレクションされたものの集大成であり、その過程のドラマであり、地味でも派手でも、そこには人の手によって現された何ものかがある。ディレクターの意志とはまるで真反対の方面に転がることもあれば、その意志に勝手に呼応し予想外の大作を生み出すことさえある。それぞれの発揮する能力を発揮させながら、その個性を開花させながらも、一つの大きな大河にアサインしていく調整力も問われる。突破力に満ちた人は得てしてその加減を知らない。行動力に長けた人こそ、このディレクションは却って難しいかじ取りを迫られる。 そう、田中代表もその恵まれた突破力が幸か不幸か、ディレクションに頭を痛めていた。しかしただでは転ばない。手痛い話なのに、にわかに声色が太くなり、今にも飛び上がらんとするその勢いが、さっきまで寝ていた人とは思えないほどのイントネーションになっていく。そうだ、このズレこそが躍動感を創り出すのだ。 人は「ズレ」や「違和感」からくる「なんでだよ」みたいな欲求不満な自分自身に、力が沸き、叡智が宿る。順風満帆でなだらかな暮らしに、眠気を覚ますようなアトラクションは期待できない。その力強さは、「ズレ」によって生まれる。私は、そんな血気盛んな鼓動と、早朝から出逢うことができたわけだ。 そしてその葛藤は、挑み続ける人間にとっての栄養剤となる。その葛藤が成長の起爆剤だ。確かにゆるやかな流れも悪くない。しかし、その落ち着いた趣(おもむき)は、荒れ狂う波の谷間にあってこそ心が解かれる。暴れん坊な展開と昵懇(じっこん)の間柄になることこそ、本当の安定を手に入れることができる。そうだ、今にも春の嵐がやってきそうだ。田中代表から聞こえる試練の連続に、そんな連想も生まれるわけだ。 3月は、出会いと別れが交差する。田中代表の出会う旅も、東西南北では飽き足らず。その躍動感は、何もフィールドの広さだけを意味しない。上下左右に揺らしながら、一つの作品を仕上げていく深さにも手を伸ばそうとしていたのだ。 田中代表。あなたは一体、どこまで大きくなるのですか。出会い別れる旅の一つひとつに、何を想うのですか。静けさに整う朝、そんな問いさえも生まれる。「起きたばかり」の、春暁(しゅんぎょう)の頃である。