September 2023

Vol.021  ドバイが見せた「もう一つの観光の姿」

ヒアリングを終え、時計に目をやる。午前0時を回っていた。しかし自然と疲れはなかった。寝不足なまま田中代表のドバイの報告を聴き、そして質問を投げていくうちに時が過ぎていた。疲れが飛んでいく感覚、こういう不思議なことは、時折起こる。主訴たるものが沸き立った時、または論点が二転三転するスリリングな展開になると、疲労感が却って体に宿る血沸き肉躍る土壌になる。奇妙な話だ。 ドバイから帰国した直後に彼女は父親の出張先である青森に飛んでいる。観光立国の今を感じたまま、今度は父を訪ねての長旅を選択するのだから、なるほど、ツーリストシップを地で生きる人間の成せる業だ。 田中代表の話を聴いていて、ふいにある詩を思い出した。夭折の詩人・伊東静雄が遺した『そんなに凝視(みつ)めるな』である。 そんなに凝視(みつ)めるな わかい友 自然が与える暗示は いかにそれが光耀(こうよう)にみちてゐようとも 凝視(みつ)めるふかい瞳には つひに悲しみだ 輝かしいものを凝視したとて、あるのはいつも、悲しみだという意味だろうか。一見するとネガティブな詩に聞こえるが、私にとっては希望だった。悲しみを真正面から受け止めることを認めてくれるような、そんな器を感じていた。どう感じ、何を考え、どのように事を起こすにせよ、そう、間違いを恐れず、悲しみを捉え、生きていく勇気への賛美にも聴こえた。 田中代表がドバイで感じた観光の現実は、決して自由さや開放的なものが溢れている実情ではなかった。ルール規制が存在し、管理監督の上で人々の生活や娯楽が営まれていく。日本人気質から見れば「何と不自由な事か」と敬遠されそうなエピソードも、ドバイでの観光を成り立たせる上ではきっと必要な事だったのだろう。その土地に、その地形が存在し、その地形によって生まれる自然や気候が、やがて人々の文化文明を創造していく。ジオパークの概念もきっとそこにあるのだろう。地質学と文化文明は切り離せない。ドバイにはドバイの背景があり、日本には日本の背景がある。 伊東静雄が凝視(みつ)めたであろう、「ついに悲しみだ」の下りには、きっとそこに立脚したものでしか語れない背景がある。その背景をなかったことにして、「本来の観光とはこうあるべきだ」と語ったところで、誰の胸にも響かない。異文化、異世界に立つということは、その悲しみ一つひとつに向き合うこと以外に許されないのではないだろうか。 電車内で居眠りをすると罰せられるドバイの規則。それは日本人の田中代表にとってどう映ったのか。違和感でもあり、だからこそ、その違いにも歩み寄ろうとした。難しく考えてみたり、それもありかと棚上げする田中代表の心の揺れを、私は聴きながら感じていた。「そんなに凝視(みつ)めるな 田中千恵子」と、伊東静雄が天から囁いたかどうかは、知らないが。 既にある状態と、一から構築していった状態の2種類がある。田中代表は日本とドバイの違いを、こうも表現した。地域色の違いに触れたかと思えば、最終的に「人が行動するにはどういう要素が必要なのか」という話題に及んだ。田中代表にとっての行動力とは「根拠のない自信」だと言い、私は「バカになることだ」と言ったら、互いに、うん納得、という感じだった。案外、やる前に想定していたリスクは起こらないものだ。絶対というものはないが、だからこそ歩みを止めずに、田中代表はここまで来た。ドバイの旅が田中代表を更に大きくした。旅というものは何だろうと改めて考察しているうちに、午前0時を過ぎていた。 『そんなに凝視(みつ)めるな』の結びはこうだ。 われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち あゝ 歓びと意志も亦(また)そこにあると知れ 自然が刻一刻と変化し、多様化する複雑な社会現象を生きる私たちに、ツーリストシップがこうして在る意味をもう一度“凝視(みつ)めてみる”。それは喜びを感じる事でもあり、悲しみを背負うことでもある。 深い夜の静けさとは裏腹に、疲れが体を鼓舞し始める。長い夜は、あっという間である。

Vol.020  無限の可能性という言葉を聞き慣れた美辞麗句と思ったアナタへ

色んな歌にせよ、企業のミッションにせよ、ほぼ見ないことがない「お決まり文句」として、『無限の可能性』という言葉がある。際限がなく、何でもできそうな魔法の言葉のようだ。未来を担う子どもたちにとってもまた、この言葉は聞き慣れている。キミたちは若いし、未来がある。そういって未来を押し付けてくる大人たちは、日々の限定された日常に奔走する。それが現実なんだと、もっともらしいことを誰が言い出したんだろう。無限の可能性という言葉を「お決まり文句」と表現した小生の発想が既に、未来を押し付ける大人同然であったことに、いま認(したた)めながら気づかされる始末である。 他方で、強みを絞り、一点突破でニッチな取柄を尖らせるという選択と集中という言葉もある。無限の可能性を前にしても、なかなか行動に移せない。「メニューはないんで、何でもどうぞ」と言われると却って何を注文したらいいか分からない。用意されたメニューに慣れた私たちにとって、無限とか、何でもありとか、カスタマイズと言われると身動きが取れなくなる。身軽に、何でもいいから、ホイと塀を乗り越えて向こう岸に渡るフットワークの軽さこそ、先の読めない今に求められているのだろうか。 そんな心配をよそに、田中代表は明日からドバイに行くと言い出した。観光立国をこの目で見たい。思ったらすぐに動く。正しいかどうかなんて、ここで悶々としても始まらない。子どものような好奇心こそ、田中代表の強みだ。そこに限定的な条件は挟まない。選択と集中も大事だが、もっともっと、可能性を広げたい。美辞麗句に聞き慣れた子どもでもなく、限定された日常にもがく大人でもない、田中千恵子の、可能性を今、もっともっと開こうとしている。 ここ最近の、錦市場での旅先クイズ会で大きな感触を得た。観光客の皆さんのノリもあっただろうが、何よりここは、課題が山積だった。課題の多い地域こそ、旅先クイズ会の存在価値があるというものだ。田中代表の心は踊った。 官民の枠を超え、ツーリストシップの更なる深化と普及に向けたドリームチームを編成するという話も出た。人が人を呼び、声のかからない日はない。ツーリストシップの重要性と、田中代表の可能性が、あらゆるものを引き寄せ始めている。 オーバーツーリズムという言葉が最近、メディアを騒がせていた。スペインのバルセロナでは、地価の高騰で住民が住めなくなっている。夜中に騒ぐ観光客が、住民の眠りを妨げている。ツーリストシップの価値が改めてクローズアップされていくことは容易に想像がつくが、田中代表は不満だった。現象だけを取り上げるのでなく、ではどうすればいいのかと、次の一手に思考を巡らせてほしい、ツーリストシップに声をかけてくれればいいのにと。引き寄せ続けている猛者の雄叫び(おたけび)である。間違いない、じきにその声は世界に届くだろう。 無限の可能性という言葉が、なぜこうも聞き慣れたものになって、あまり子どもたちの心を揺さぶらないのか。それは、可能性を外に求めるからなのだろうと、想うことがある。可能性はもしかしたら、人の内面、心の中にあるのかもしれない。外に向かうと、できない言い訳が増える。たくさんの障害を目にする。それをシャットアウトできる内側からくるモチベーションの強さであり意味にこそ、無限の可能性を求めるべきかもしれない。大人たちがそれを表現するときの、妙なよそよそしさは、おそらく日々の社会にもまれ、外部環境に振り回されてきた大人たちの歴戦の記録である。戦いで負った傷は名誉だ、ただし同時に、子どもの頃に描いていた無敵状態とは、縁遠くなるものだ。それが大人になるということなんだよと、知ったような口をきいている傍らで、田中代表はドバイの準備を始めているという話である。 可能性は内側にある。ドバイに飛び立った田中代表もまた、その一人だろう。PR動画もできつつある、今やどの地域に出店の話を持ち込んでも、受け入れてくれるほどの理解を得ることもできた。負った傷を可能性に変えてきた田中代表に言わせれば、今はこういう感じらしい。 「正直、きてます。いま。」 無限の可能性という言葉を「お決まり文句」と鼻で笑った私自身を今、恥じている。