Vol.008 『8.6ツーリストシップサミット』が、“本質記念日”になる理由

私たちが一日のうちに、街中で目にする広告の数は4,000~10,000と言われている。

目まぐるしい広告の数は、言い換えれば狂おしいほどの「これ、買ってください」が横行する資本主義社会。

通販で購入した途端に、リコメンドが追い打ちをかける。これもある、それもある、あれもいい、これも、いい。息つく暇もない波状攻撃を前にして、私たち本来の意思はもしかすると蔑ろにされ、《買わされている》かもしれない虚しい実態を浮き彫りにする。

ネット社会、SNS効果によって便利になった社会の副作用であるとも表現できるが、実はここ最近になって言われた話ではない。江戸幕府の末期、大政奉還の5年前にドイツの労働運動家フェルディナント・ラッサールが、既にそれを指摘していた。

彼の主張はこうだ。本来は欲しいと思う人のニーズがあって初めて、供給や生産が生まれるもので、買う側が欲しいと求めるから作り手はそれを作り販売するという順番が正常である。だがそれはもはや逆転していて、生産と供給が欲求に先行し、作る側が買う側に対して、購買意欲を強制しているという主張だ。

つまりは、1862年当時から彼は既に、世界市場のためにモノが生産されていることを指摘していたのだ。欲しいから作るのではなく、欲しくなるようなものを作って、無意識にそれを選択させようという巧妙なマーケティングが昔から始まっていたわけである。

驚くべきは、そんな昔からもう私たちはずっと、「欲しいから買う」のではなく、「呼ばれたから買っている」操られたかのような生活を営んでいたということだ。それくらい、欲求に対して、生きることに対して、本質を射抜くことは難しい。数多ある誘惑との戦いでもあり、作る側と買う側との綱引きは今日も例外なく社会を動かしている。

目指すものは何なのか。今私は、何のためにこれをやっているのか。この本質的な解答になかなかたどり着けない私たちの有様も、ある意味頷くしかない。外からの刺激によって手足を動かしてきた私たちが、いざ「私たちから」その手足を動かす方法論を、もはや失って久しいわけである。

悲観論ではない。これは私たちにとって希望なのだ。世の中に出回る「買ってください」に、あえていえば《期待する必要はない》のだ。何が出回ろうとも、どんなノウハウが世に出ようとも、そのキャッチーな甘い蜜には、甘いなりの理由がある。そのことを胸に忍ばせ、本質を生きる可能性は、「買わされている」私たちだからこそ成し得る事だと思うからである。

8月6日の第二回ツーリストシップサミットは、本質と向き合う機会にする。私たちが心の底から、求めたいもの、得たいもの、到達したい高みを目指す。集まってくれる方々の笑顔を想像し、ツーリストシップを生きるという確かな選択肢は、私たちを揺さぶり続けるあの秀逸なリコメンドには決して検知されまい。だからこそ、開催する意義がある。

2023年8月6日は、私たちがその本質に向かい合い、求め合い、心が喜ぶ方を選択する記念日になる。その幕が切って落とされたのだ。

「お越しになる方々の笑顔をイメージすることから始めたい」

今夜もぎりぎり終電に飛び乗った田中代表の、静かな、けれど熱い決意表明だ。成功の方程式は案外単純だ。人が一日のうちに目にするであろう4,000~10,000の広告が、一切目に入らなくなった時が、サミットの成功を意味する。その日までのカウントダウンが、今夜ここで、打ち鳴らされたということだ。

京都大学の時計台。ツーリストシップという本質が、学問の社(やしろ)を、射抜く。 (1379文字)