Vol.35「今に見てろよ」ツーリストシップは今、根を張っている。

オーバーツーリズムという言葉を、メディアの至る所で目にするようになった。

5月と言えばゴールデンウイーク。観光地で華やいだであろうインバウンドの盛況ぶりがメディアを埋め尽くしていた。変わったことと言えば連休最終日、思ったよりも人影が少ないですねというリポーターの報告くらいだった。

露出、という点で田中代表は今日も肩を落としていた。
もっとツーリストシップを前面に出さないといけない。観光地で生まれている諸問題に、このツーリストシップが最も有効な特効薬であるという自負があればこそ、そのうっ憤は頂点に達した。

ツーリストシップという言葉は確かに、オーバーツーリズムよりもその露出は弱い。しかし私は、それがそのまま「反省」や「対策」といった類の連想に繋がるかと言えば、逆の意見を持っている。露出が必ずしもその発展を意味しない。だから、多少の改善は必要だけれども、今の実情を嘆くほどではないという意見だ。

先日私は、フィールドワークの一環で福岡県糸島市を訪れた。そこで偶然入った食堂の店主に色々と糸島のリアルを聞いた。正直驚かされた。メディアや観光ブックに載っていない物語の数々、そして何より店主自身の人生模様のユニークさは、メディアが到底取り上げないものでありながら、どのメディアにも負けないドラマの連続を見た。2時間ほど居座り、時を忘れて話し込んだ。物語の価値と露出の程度とは決して比例しない。そのことを身をもって体験した。

「皆さんそれぞれにドラマがありますからね」

店主に言われたその言葉が印象的だった。日々の日常に宿るドラマは、得てしてドラマチックなものを内包している。しかし大抵は、そのことに気づかない。

ツーリストシップという生き方、振る舞いというものは、そういう埋もれた日常に確かに咲いている花を、「見つけて」「示す」ことだけでなく、「ただひたすらにそのままで」「目立つことなく根付いている」ものとしての、秘すれば花のような価値を見出すことにも大きな意味がある。その根っ子にこそ、本質がある。誰もが抱く日々の中の、誰もが見逃すその一つ一つである。

最近、ツーリストシップのWikipedia、ツーリストシップウィキの制作に取り組んでいる。観光地で見せる様々な顔を、もっと身近に、そして観光本では扱わないような小さなものにこそドラマを生み出そうと、様々なエピソードを蓄えている。そこに足を踏み入れたものにしか分からないドラマ、日々埋もれがちなその物語を、ツーリストシップは拾い集める。露出が価値ではない、その出逢いに、その小さなものに宿る何かを、ツーリストシップは語ろうとしている。

田中代表の焦りは大事だ。しかしこういう、小さな日常にも価値はある。露出だけが大事なのではない。土で見えないその下の、力強く根を張るその太さが、やがて大きな実を実らせる。

連休に沸いたメディアをよそに、ツーリストシップは今この瞬間も、小さくて大きな根をはり続ける。その試みの止まらぬ限り、ツーリストシップは今日もこうして、たくさんの根を張り巡らせている。

「今に見てろよ」

田中代表の、言葉にならない言葉が、聴こえた気がした。