vol.33 一周回って映る景色

「一周回って新しいぞ、それ」

もう20年くらい前。何も考えずに服の上下をストライプで揃えてしまった。まるで吊るされた素麵のような出で立ちを前に、あざ笑う友人たち。一人暮らしの時は、自分しか服装のチェックができないから、鏡の前に立つ時間を失うとロクなことがない。しかしその直後に、「一周回って」という言葉が出た。妙に記憶に残っている。

一周回るという表記は、今思えば大きく二つの用途がある。行為と比喩だ。行為としては「グランドのトラックを一周回った」「一周回って見せてごらんよ」「あのトロサーモン、一周回ってきたぞ」といった風な、何かが文字通り一回りしてきた様子を指す。

もう一つが面白い。「一周回って面白い」「一周回って追いついた」「変態って一周回って天才だよな」といったような、一周回ることで原点回帰だったり、昔のものや劣っていたものが「一周回る」ことで何かしらの力を得る。説得力なのか、レベルアップなのか。螺旋階段のような上昇機運ならまだ合点もいくが、一周回ることがなぜスケールを大きくしたり、今までにない価値を引っ提げてくるのか。日本語の比喩はこれだからオモシロイ。

田中代表も、御託に漏れず「一周回った」。ツーリストシップが一周回って、「マナー啓発」を促す表現をしている。本来ツーリストシップは、マナー啓発を指すことを半ば嫌っていた。旅人がマナー啓発って、そもそも楽しいのかそれ。旅は確かにマナーも大事だが、本来人は「楽しいから」続けられる弱い生き物だ。そこに啓発とか言って、浸透するわけがない。そんな想いがどこかにあった。

しかし、ツーリストシップの活動を積み上げ、折り重ねていくうちに、時代も環境も、そして目指すビジョンも変化を遂げている。潮流は決して、新しいものを次々には求めない。足元に既にあって、その価値をひたすらため込んでいたモノたちが、一周回ってワンと吠えるのだろうか。

「マナー啓発のバージョンアップとして伝えていいんじゃないかと思えてきたんです。それはあくまでも、伝えるためであり届けるため。そして実際に、そのことが《現れる》ために。」

田中代表をリアリストとは言わない。しかし、リアルな浸透策は得てして俗世間の生命線だ。行政と共に、旅行者と共に、住民と、観光地で商いをする方々と共に、伝わり届く本質を探り当てようとしているのだ。

ツーリストシップの一周は、決して容易いものではなかった。幾多の試行錯誤と喧々諤々とした議論を要した。だから、「一周回ってマナー啓発」には厚みがある。その言葉の意味するところ、来るところがまるで違うのである。

20年前に私が着こなした「ストライプ&ストライプ」は、かつての「まえだまえだ」のような可愛げがあったわけでもないし、奇をてらったニューセンスをカマしたわけでもない。完全なチョイスミスだ。しかしその出来事は、今もこうして記憶に残る。一周回ることで、その物語が違う表情を持って来てくれる。たくさんの風を感じて、その一周が、深い洞察と根を張る意味をもたらしてくれた。ただ言えることは、あの日からストライプの服を選ばなくなった。おかげであの日は夜中まで縦の罫線を身にまとい、心穏やかに過ごすことができなかった。嗚呼、ストライプ。なかなかの苦痛であった。

一周回ったツーリストシップは、その原点と、一周のうちに出逢った様々な軌跡を小脇に抱え、まだ見ぬ航海へと胸を膨らませる。そういう夢のある《一周回る》を、ツーリストシップは体現し始めた。マナー啓発のツーリストシップ、実に爽快で心地いい、reborn(リボーン)である。