Vol.022  旅先クイズ会に知床5か条。積み重ねたアクションから見えたもの

栗の化け物は舞台の奥に、腰を低くしてしゃがみ込む。その大きな体は、隠そうにも隠し切れない。大きな体を舞台の隅で晒している。やがて、健気な少女が舞台の中央にやってくる。

「あれぇ?確かにこの辺で音がしたんだけどなあ…」

すぐ後ろに鎮座するその存在に気づかず、無防備に辺りを見回す少女。栗の化け物は、我が物顔で少女に忍び寄る。

「うしろ!うしろにいるって!」

「あかん!やられる!そこちゃう!」

ここは娘が通う保育園の学芸会。先生たちが園児のために、即席の舞台でハロウィンにちなんだ演劇を披露していた。そこでのワンシーン、いわば「少女(先生)、ピンチ!」というやつである。

その園児たちの微笑ましくも必死な、断末魔の叫び声を聴いていて、ふとツーリストシップを思い出した。

旅先クイズ会のオーディエンスもまた、目の前に繰り広げられる小さくも偉大なクイズや出し物に、首をかしげて悩みながらも、心躍りながら〇×を掲げ続けていたのだろうと。

毎回グループLINEに報告として送られる、躍動感たっぷりの写真たちを見るにつけ、旅先クイズ会が観光地というわけではないのに、その一期一会が見事な旅の醍醐味を生み出していると感心させられる。クイズ会それさえもが立派な観光名所になっているかのような充実ぶりが心を打つ。

功利的に物事を捉え、今時のタイパ重視よろしく、無料サービスに慣れた現代人。ちょっとやそっとでは感動できない体質になってしまったかもしれない我々ではあるが、人との出逢い、アナログの良さはいまだ健在だ。いざ旅先クイズ会が始まれば、その舞台の上で、懸命にツーリストシップを体感する。あの日、必死に叫ぶ園児たちの声は、決して完成された美しさはないとしても、心がそのまま言葉に憑依した見事なイリュージョンだった。案外それと変わらぬ熱さを、旅先クイズ会は秘めている。

園児たちの懸命な「信じ込み」は、一つの才能であり力である。栗の化け物が後ろにいる。いつも頼もしい保育士さんが、そんな間近に潜む化け物に気づかないなんて。何なら涙目になって訴えている園児もいた。この没我は、大人たちを確実に凌駕していた。

信じ込みがやがて世界を変えていく。その原動力は、確かに諸刃の剣かもしれない。思い込みによる視野の狭さを揶揄されるかもしれない。だが、ムーブメントはある日唐突に訪れる。信じ切ったからこそ、訪れる。小さな積み重ねを諦めずに続けること、この尊さが、《きっといつか》世界に届く。そう思っていた。

だが、今夜の展開は違った。田中代表から出た言葉は、「もっといい方法がある」だった。

もっといい方法?旅先クイズ会は違うということか?

意外な答えにきょとんとした私を察してか、慌てた口調で言葉を続ける。

「いえいえそうじゃないんです。旅先クイズ会は絶対に大切ですし、もちろん続けます。

 ですがもう一方で思ったんです。地道な活動だけでは時間がかかる。少しずつ積み上げながら、レバレッジの効いたことも考えないといけない。これだけしかない、じゃなくて、実は方法論は無限にあるんじゃないかと考えることが大事なんじゃないかと、私、思い始めたんです。」

知床でツーリストシップ5か条というものを作った。自然と動物と人間の共栄共存のために、そして、観光客が知るべき情報を分かりやすく伝えるための5か条。

例えばヒグマ、キツネへの餌付けを禁じること。言うに及ばず、餌付けは双方にとってデメリットしかない。

野山の川の水は飲んではいけないということもそうだ。一見すると自然の川の水は、マイナスイオンたっぷりで、とっても美味しそうだけど、野生に巣食うウィルスによってお腹を壊す恐れがある。このような注意点、まさか言われなくともわかるほど、私たちは利口じゃない。こういうことも、ツーリストシップでは実践してきた。

全ての施策は、ツーリストシップに通ずる。その信念こそが、「もっといい方法はないか」の萌芽を浮かび上がらせる。田中代表もまた、あの日の園児のような無邪気さを持ちながら、実は冷静は目を持っていたのだ。

栗の化け物と少女はやがて仲良しになり、旬の食べ物・サツマイモを掘り当てて、めでたしめでたしと閉幕した。園児たちは脇目も振らずに教室に帰っていった。

田中代表が目指すツーリストシップの理想の姿は、遠い向こうにあるようで、案外近くまで来ているのかもしれない。いや、もう既に傍まで接近しているけど、《あえて》気づかないふりをして、彼女はどんどん成長を遂げているのかもしれない。そう、栗の化け物に気づいているのに、素知らぬ顔で「どこぉ?」と辺りを見回していた、あの、健気な少女のように。

ところであの栗の化け物は何だったのだろう。保育士さんたちが、時間を割いて懸命に考えたオリジナルストーリー。その真意は誰にも分らない。ただあるのは、懸命に園児のために取り組んだ、先生方の努力の結晶であり、もし答えがあるとすれば、何より、その演劇に微笑む娘たちの笑顔である。私にとってはもう、それだけで十分だった。