Vol.024  インタビューなしでも、言葉が意味を運んできた日。

旧ツイッターがいつの頃からか140文字の文字制限を解除したあたりから、言葉と言葉の合間、文と文と間を読むようなことが減ったような気がする。

少し飛躍も込めて表現すれば、まさに「言葉通り」「文章通り」に読み取ることこそが正確で、その文と文の間に流れる微妙な質感というものは、よく言えばわかりやすく削除され、悪く言えばワビサビを失ったということか。

昔よく、できる部下・できない部下を言い表すときに使われた例え話がある。

七輪でサンマを焼いている。別のところに呼ばれ、少し席を離れなければならくなった。

A:ちょっとごめん、サンマ見といてくれる?

B:わかりました。

30分後帰ってくると、真っ黒に焦げたサンマが七輪に横たわっている。

A:え?見といてって言ったのに。丸焦げじゃないか。

B:ええ。言われた通り、《ずっと見てました》よ。

言語学で有名なJ・L・オースティンは、言葉には3つの種類があると表現した。

(1)言語行為、(2)言語内行為、(3)言語媒体行為。同じ言葉でもこの3種類があるという。

例えばフリーアドレスの職場。ノートパソコンを開き、デスクワークをしている。すると向こうから、カップになみなみと注がれたコーヒーを持った若手が近づいてきた。どうやら私の隣に座ろうとしているようだ。

そこで私が「これ、ノートパソコンだからね」と言ったとする。

(1)言語行為は、その言葉の通りだ。やってきた若者に「これはノートPCですよ」と伝えた「だけ」の話。

…まあ確かに意味はそうだが、このタイミングでそれを伝えるのは、《その言葉の意味だけではなさそう》であることは容易に想像がつくだろう。

だが言語行為としては、ただこれが「ノートPCです」をあらわしたに過ぎない。

他方、(2)言語内行為とは、その言葉に込められた内側の意味を指す。

…そう、「これはノートPCだから、そのコーヒーをもしこぼしたら、大変なことになるよ。仕事にならなくなるよ、涙。」ということを、暗に示すもの。

私なりに、こぼすんじゃないかという、「虫の知らせ」を伝えたという構図になる。ノートPCであることを伝えたいわけでなく、その先に見える危機を伝えているに等しい。

(3)さらに突っ込んで、言語媒体行為。その言葉を媒体に、何かしらの指示をしているわけだ。

…「そんななみなみと注いだコーヒー持ってくるなよ。俺今大事な仕事してて、もしそこで転倒したらノートPC台無しだろ。せっかくここまでいい感じで作った作品が台無しになるじゃないか。俺の青春を返せってなるぞ。だから、向こうに行ってくれ。そもそもなんでそんな、なみなみと入れるんだよ。コーヒーはそんな大量に入れるものじゃなくて、ほどほどに入れてリラックスするものなのに、自分は好きなコーヒー飲んどいて隣人をはらはらさせてどうする。そういえば先週もお前、取引先のえらいさんにお茶出されて何も(省略)」

言葉を額面通りに取ることで、誤解のリスクを解く。また、ちょっとした言葉足らずな部分を指摘することで、その真意を正確に読み取る。確かに尊いリスクヘッジだ。

しかし、そのことが、私たちの生活をより難しくもしている。間違いを恐れ、その文脈に流れる背景や文間に内在する意味やセンスを失っていく。文脈は途切れることなく人生の幅のごとく続いていく。文間もまた、その人その人が紡いできた歴史に呼応する。コーヒーひとつでこんなザワザワを覚え、あーだこーだとブツブツ言いあうのが人間なのだ。

…実は今回、こんなに前置きが長くなったのにも理由がある。田中代表とのセッション、今週、実施できなかった。お互いのスケジュールがすれ違い、結局何も言葉を交わさぬまま、私は筆をしたためている。

ちなみに、すれ違ったときに交わしたやり取り、田中代表からの言葉は、lineで交わした以下になる。

「すみません見落としていました」

「明日でも大丈夫です」

「気づいたらこんな時間になってました」

「もちろんです!」

「ありがとうございます!」

最後の2行は、私から「今回はインタビューなしで一度書いてみても、いいですか」という私からの問いかけに応じたものだ。

念のために言っておくが、決して私が怒っているわけでもないし、「もういいや」って諦めたわけでもない。事実最初の順延は、子供を寝かしつけいている間に「しでかした」私の寝落ちが原因である。

しかし私の中で、このすれ違いにこそ価値があると感じ始めた。語られないことから立ち現れてくる文間があるのではと、ふと思ったのである。だから、何も交わさなかったところから、言葉というものを浮き立たせ、書いてみたくなった。

交わされなかった言葉たちもまた、「言葉」である。そして残された数行のlineにも、そこにしか存在しない背景があり意味があり、メッセージがあり、それこそ、「焦げたサンマ」に負けないほどの物語がある。

この5行の文章から、そしてその文間から、どんな物語が、そして田中代表のどんなアクティビティが、皆様の心に、透けて現れただろうか。

そう、彼女は全国を奔走し、留まる日が存在しない。私も些細なことだが、目の前で起こることに、懸命に歯を食いしばって不器用にもがいている。そんな我々二人のすれ違いの文間に込められた思いが、「これです」と取り出してお見せできるものはないにしても、日々の生活それ自体がすでに、みな、それぞれの劇場を生きている。そう思えば、この5行には、ある意味での非凡さを含んでいる。

「見落として」しまうほどの目まぐるしさ、「気づいたらこんな時間になって」しまうほどの充実した日々そして、いつもツーリストシップにご尽力いただき、本当に「ありがとうございます!」という感謝の言葉と置き換えられた。私個人の言い換えではあったとしても、決して誇張ではないと胸を張れる。

ツイッターで文間を失い、サンマを焦がし、コーヒーに青春を奪われたくないと独り言をぼやく、私たちが織り成す無数のコミュニケーションの一つひとつは、その場その場で顔を出したあくまでも表層でしかない。

その裏には、途方もないプロセスと、生き様がある。劇場がある。今日はそのことを、言いたくなった。

田中代表、今回初めてノーインタビューで書いてみました。ご期待に添えたかどうかわかりませんが、いかがでしたか?

…え?《サンマ焦げてる》って? …ほぉ。それはどういう意味かな(笑)。