Vol.31 ディレクションにもがく春。

それは明らかに「起きたばかり」の声だった。

最近の早朝ヒアリングにも幾分慣れた頃、疲れは不意に体を襲い、寝覚めを悪くする。慣れというものがなければ人は生涯に渡って緊張し続けないといけない。だから「お前最近、緊張感がないぞ」というのは別段悪いわけではない。適応力の高さであり、昨今使われ始めたカタカナの一つ、「レジリエンス」の発揮そのものである。

慣れによって寝覚めを鈍化させたその体が、少しずつ熱っ気を帯び、テンションが二次関数のように空に向かう。その原動力となったのは、「ズレ」という課題が話題に上ったあたりだった。

田中代表は今、ディレクションという仕事の難しさを噛み締めている。ディレクション、言うなれば求めるゴールに向けての管理力と、資源の適切な再分配力が求められる仕事だ。世の中にあるものの大半は、誰かの手によってディレクションされたものの集大成であり、その過程のドラマであり、地味でも派手でも、そこには人の手によって現された何ものかがある。ディレクターの意志とはまるで真反対の方面に転がることもあれば、その意志に勝手に呼応し予想外の大作を生み出すことさえある。それぞれの発揮する能力を発揮させながら、その個性を開花させながらも、一つの大きな大河にアサインしていく調整力も問われる。突破力に満ちた人は得てしてその加減を知らない。行動力に長けた人こそ、このディレクションは却って難しいかじ取りを迫られる。

そう、田中代表もその恵まれた突破力が幸か不幸か、ディレクションに頭を痛めていた。しかしただでは転ばない。手痛い話なのに、にわかに声色が太くなり、今にも飛び上がらんとするその勢いが、さっきまで寝ていた人とは思えないほどのイントネーションになっていく。そうだ、このズレこそが躍動感を創り出すのだ。

人は「ズレ」や「違和感」からくる「なんでだよ」みたいな欲求不満な自分自身に、力が沸き、叡智が宿る。順風満帆でなだらかな暮らしに、眠気を覚ますようなアトラクションは期待できない。その力強さは、「ズレ」によって生まれる。私は、そんな血気盛んな鼓動と、早朝から出逢うことができたわけだ。

そしてその葛藤は、挑み続ける人間にとっての栄養剤となる。その葛藤が成長の起爆剤だ。確かにゆるやかな流れも悪くない。しかし、その落ち着いた趣(おもむき)は、荒れ狂う波の谷間にあってこそ心が解かれる。暴れん坊な展開と昵懇(じっこん)の間柄になることこそ、本当の安定を手に入れることができる。そうだ、今にも春の嵐がやってきそうだ。田中代表から聞こえる試練の連続に、そんな連想も生まれるわけだ。

3月は、出会いと別れが交差する。田中代表の出会う旅も、東西南北では飽き足らず。その躍動感は、何もフィールドの広さだけを意味しない。上下左右に揺らしながら、一つの作品を仕上げていく深さにも手を伸ばそうとしていたのだ。

田中代表。あなたは一体、どこまで大きくなるのですか。出会い別れる旅の一つひとつに、何を想うのですか。静けさに整う朝、そんな問いさえも生まれる。「起きたばかり」の、春暁(しゅんぎょう)の頃である。

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